木の家づくり物語 - 7話 –
花粉症対応住宅「スタディオ」
プロローグ
家族 山崎渉(わたる)35歳、千晶33歳、雄太5歳、友香2歳
オレンジ色の椅子に腰掛け、足元から視線を上げ窓の外には、梅雨明け間近の照りつける日差しの中で樹々の間を光が飛び跳ねている。待合室の椅子に腰掛ける千晶は、2歳になる由香を両腕でギュッと抱きしめ、外の眩しい景色とは対照的に、その顔は日本海側の冬空のように暗い。
スギ花粉が飛散する時期、2月から5月の約4ヶ月、今年は昨年よりさらに症状が悪化した。くしゃみ鼻水、頭痛に加え花粉症による寝不足でストレスや疲労が溜まり、日々の暮らしに余裕も笑顔もなくなった。
ようやく症状が落ち着き始め。今年もなんとかやり過ごしたと感じていた矢先の6月の中旬になり、千晶は花粉症に近い症状を自覚し、このクリニックに来たのが1週間前の月曜日だ。
これまでスギ花粉の飛散時期に鼻水、くしゃみ、目の痒みなど花粉症の症状が現れ、他のアレルゲンを疑うことなく対処法を実践してきた千晶は、今の症状を医師に訴えた。
「念のためアレルゲン検査をいたしましょう」と医師に言われ千晶はつい、
「アレルギーが悪化しているということですか」と漏らした。
「いえいえ、悪化というよりアレルゲンの種類が増えている可能性がありますので、念のため検査した方が良いと思います。またアレルギー療法にもアレルゲンの特定は非常に重要です」
千晶の美しい眼と唇は、不安げな心持ちを表するように歪んでいる。
花粉が舞い散る季節の苦しさ、不快感などの自覚症状も辛い。しかし精神的な苛立ちから家族へ怒りを爆発させた時の惨めさに、さらに気持ちが沈み込む苦しい日々の記憶が蘇る。
千晶は目を上げ、
「先生、アレルゲンの検査をお願いします」と思わず口から漏れる。
花粉症の苦しさは、その自覚症状のみならず精神的な苦痛も大きくストレスを感じている。
ストレス、ラテン語の「締め付ける」を意味するストリンゲーレstringereに由来し、転じて「圧迫」とか「抑圧」の意味で使われる。
このストレスにより食欲がなくなり、夜も眠れないなどの肉体的不調に加え、家族や勤め先でも小さな衝突を繰り返している。さらにストレスを感じる期間が長くなると、自身の身体にストレスで悪性腫瘍や心疾患など、もっと重篤なの疾病を発症するかもしれないと心配もある。
医師は千晶の方へ向き直り、
「わかりました、検査方法は「View39」と「MAST48」のどちらかが良いかと思います。この季節ですから私は「MAST48」をお勧めします。「MAST48」の検査項目には、おおよそ年間を通し花粉の項目が多く、13種類の花粉を調べることができる一方で「View39」の花粉数は7種類になります。どちらも少量の血液を採取し検査する血液検査です」と伝える。
「血液検査といえば腕からの採血ですか、わたし注射すると意識が遠くなることがあるんです」
と千晶は心配そうに医師へ伝える。
「そうですか『血管迷走神経性失神』の疑いがありますね、女性に多く見受けられます。念のためベッドで横になていただき採血いたしましょう。そうそう、最近は指先に小さな針を刺し、ごく少量の血液で検査可能な『ドロップスクリーン』という検査法もありますね。確か検査項目は41種類で判定時間は数時間で可能だったかと思います。
ただ、申し訳ないのですが当院では、まだ検査機器を導入してないんです。スミマセン」
と言いながら、机の上にプリントアウトしたA4の紙を置いた。
比較表は、ご自身が表計算ソフトを使い作成されたもののようで、検査対象アレルゲンを一覧にし比較しやすいように作られている。
千晶は検査方法により異なるアレルゲンを見比べ、花粉症項目を注視した。
花粉症項目では「MAST48」のアレルゲン項目が最も多く他の2種類では判定できないイネ科花粉の「ナガハグサ」「ハルガヤ」「ギョウギシバ」雑草花粉の「オオブタクサ」「ブタクサモドキ」も判定可能だ、さらに食物系では「ヘーゼルナッツ」「クルミ」「アーモンド」が加わる。ただ「ゴキブリ」「ガ」「リンゴ」が他の2種類には含まれるが「MAST48」には含まれない。
掃除を徹底している千晶はゴキブリがアレルゲンとは考えにくく、自身でも季節性の花粉を最も疑っているが、表記中の真菌類の中にある「マラセチア」という言葉につまずく。
「先生、ここに書かれている真菌のマラセチアとはなんですか?」
「誰の皮膚にも存在する常在真菌の一つですね。真菌による3大皮膚病を引き起こす原因菌として「白癬菌」「カンジタ」に加え「マラセチア」が、その一つになります。皮膚疾患をお持ちでしたら検査の必要があるかもしれません」
「幸い今のところ皮膚の痒みを感じたことはありませんわ」
「それでしたら、やはり『MAST48』の検査にいたしましょう」
この言葉に千晶はうなずき採血を行った。
検査結果を聞いた日、千晶は、その結果を夫の渉に伝えた。
渉は慈しむ眼差しで答える。
「そうか、それなら住宅を新築する計画を少し早めようじゃないか」
「いいの」
「もちろん千晶の身体のためなら、なんでもないさ」
2人で住宅の新築を真剣に考え始め1ヶ月が過ぎた。その間「健康住宅」「アレルギー対応」などと銘打った住宅会社を何件も見て回ったが、いずれの会社が新築した住宅にも、なんとなく気乗りがしない、何かが違う。
「間取りはこのパンフレットからお選びください」と間取りが自由にならなかったり、
「使用建材がF☆☆☆☆だから健康住宅です」と言われたり、
「ご希望の注文住宅でしたら、かなりの高額になりますがよろしいですか」
「ご予算ではとても無理ですね」などと言われたこともある。
閉塞感が漂う日々を過ごしているある日、夕食の準備をする前のわずかなひと時、千晶は手にしたスマートフォンの画面に「健康住宅研究室」の文字を目にした。
ファーストコンタクト
山崎夫妻は雄太と友香を連れ郊外の打ち合わせ場所へ向かう。その事務所は小さな平屋建てで、敷地の奥には木造の作業小屋か資材置き場が建ち、シャッターが少し空いている。中には木材が積まれているようだ。
千晶は娘の由香を抱き事務所に入ると、いつもは新しい建物に入ると、むずがる由香が平気な顔でというより、やや笑顔に近い顔をしていることに気がついた。ふと振り向くと以前、住宅会社のモデルハウスで「はやくおうちにかえろうよ」と何度も泣いた雄太も今は平気な顔をしている。
挨拶もそこそこに千晶は話しはじめた。
「メールでも書きましたようにアレルギー対策の家を建てたいんです。もちろんアレルゲン検査も行いました」
「アレルゲンの検査法は何を行いましたか」
正面に正座した建次が問いかけてくる。
「MAST48です」と答えると建次は、
「特に季節性花粉症ですか、特定されたアレルゲンは何だったのでしょうか」と聞いてくる。
そういえば、これまで何件かの住宅会社を訪ねたが、一度もアレルゲンのことを聞かれたことはなかった。
「そうです、特に季節性の花粉の”スギ”と”イネ科””ブタクサ”に加えて、実感はあまりないのですが検査の結果ではハウスダストも怪しいそうです。あっ、それと先日マンゴーを食べたら微かに口の周りが痒くなったことがありました」
視線を背けることなく見つめる健次は、神妙な表情で
「マンゴーはウルシ科ですから、ちょっと違う感じがしますが、いま伺ったアレルゲンですと、それは年間を通して何かしらの花粉症の症状が現れるということでしょうか」
「そうなんです春にはスギ花粉、初夏にはイネ科の花粉、秋はブタクサで少し楽になるのは冬だけかもしれませんね」
千晶は眉を八の字に眼を赤くして小さな声で答える。
「ご希望は年間を通して花粉症対策とハウスダスト対策をできる家ですね」
「そうです、お願いできますか」
ファーストプラン
「お母さん、これからどこへ行くの」
と助手席のチャイルドシートに座る5歳の雄太が聞いてくる。
「おうちのお話に行くのよ、ほらこの前、行った木がたくさん積んであった、おうちよ」
「ぼく、あのおうち好きだな」
「あらどうして」
「どうしてって言われてもわからない、なんとなくかな」
「わかるわかる、お父さんも一緒だよ。なんとなくいいよな、あの家」
「いらっしゃいませ、お待ちしておリました」
建次の笑顔が出迎える。
「今日は、よろしくお願いします」渉が言った。
机の前に座ると表紙に「花粉対応の家「STUDIO」と書かれたA3用紙を何枚か綴じた図面が置かれている。
「住宅の花粉症対策は『1.持ち込まない、2.侵入させない、3.素早く取り除く』この3点です。スギ花粉だけであれば、1年のうち数ヶ月だけですが、山崎さんの場合は年間を通して花粉症対策が必要になると思われます。特に花粉を持ち込まないことに注意したプランニングです」
建次は続ける、
「さらにハウスダストも怪しいと伺っているので、掃除がし易い家を考えています」
「掃除がしやすい家って、どこが違うのですか」
今まで掃除がしやすい家などと考えたこともなかった千晶が興味深く、目を輝かせ聞く。
「私も自宅の掃除をします。掃除をする時、床に物が散乱していると、掃除機をかけるにしてもフロアーワイパーで拭くにしても、どかしながら掃除をするのが、とっても面倒ではありませんか」
「そうなんです。うちは子供がいるので物が散乱しやすく、それを片付けながら掃除するのが結構、大変なんですぅ」
と雄太の頭を撫でながら笑顔で答える。
「そうでしょう。まず掃除をしやすくするために余裕のある収納を設け、動きやすい動線に気をつけました。さらに動きやすい動線を確保することにより風通しが良くなり、気温や湿度の室内差が軽減され、カビの発生も抑えることができると思いますので、基本的に1階はワンルームタイプといたしました」
渉は思わず顔をあげた。
「ワンルームって、マンションなどの一部屋ってことですか」
建次は顔の前で手を左右に振り、
「いやいや、ワンルームといっても一部屋ってことではなく、部屋同士が一つの空間で繋がっているということです。図面にて説明をいたしましょう」と言いながら図面を広げる。
ポーチ・玄関
建次は表紙をめくり1階平面図を広げ、
「先ずは玄関から話します」と手にしていた黒いシャープペンシルの先で「ポーチ」と書かれた箇所を示す。
「花粉対策の住宅では、花粉を持ち込まないことが最も大切だと考えています。ですから、徹底的に花粉を持ち込まない対策をしています。もちろん過剰な設備だと思われるようでしたら何なりと言ってください」と前置きし、話し始める。
住宅の設計図を見慣れている建次は図面を見ただけで、その空間を思い描き、その空間の中を実感するように行動することが可能で図面さえあれば、その説明を聞く必要もない。
しかし「専門家の常識は門外漢の非常識」だと肝に命じる建次は丁寧に説明をする。
「降雨時には花粉の飛散量が減少するとはいえ、急激な天候の変化もあるでしょうから、帰宅時にポーチで丁寧に花粉を払るように3方を壁で囲み屋根を付けています」
渉は不思議そうに「この壁に隙間が空いているのは何故ですか」と聞いてくる。
いいところを聞いてくるなと、ほくそ笑み建次は答える。
「本来なら、ここの壁はなくとも良いのです。しかし、この地方の冬には北西の強風が吹きやすいので、この方向に風除けとして壁を設けています。そして壁の入角部分に花粉や埃がたまらないように角部分を空け、花粉が溜まらないようにしています。ただし、この通りスリットの入った壁にするか、あるいは格子や縦型のルーバーにするかは、これからの検討が必要で、現段階では覚え書きみたいなものです」
「あなた、今は間取り全体の話を聞いているのだから壁スリットの話は後でも良いんじゃない」千晶は渉と視線を交わす。
「あっそうだね、すみません最初から細かなことを聞いてしまいました。ですが、素人の私などは、このような図面を見ると、そのまま建物になってしまうと勘違いしそうで、ついつい細かなところまで気になって。続けてください」と渉は頭を掻きながら言った。
長年に渡り数多くの間取りを手掛けた健次の図面は、一見すると何の変哲もない図面に見えるかもしれないが、その中にはプランニングの最中に浮かんだアイデアや注意事項を忘れないように書き込んである。
この壁に入ったスリットを読み解くなら「ポーチは雨や雪の吹き込ませず埃を溜めない工夫が必要」と解釈できるのだ。
「いえいえ、先にお伝えするのを忘れておりましたが、この図面は、あくまでも最初のプランですから叩き台、原案です。今後もっとブラッシュアップが必要になります、そのためにも気になった時には何でも聞いてください」
いつものことなのか笑顔で答え、建次は話しを続ける。
「ポーチで服についた花粉を軽く払い、玄関へ入る前に風除室で手洗い洗顔ができるように洗面器を設置しました。花粉が多く飛散する時期には、服についた花粉は、あまり飛び散らないように、濡れたタオルで拭き取ると効果的だともいいますね」
「私、家に入る前には服に付いた花粉を取り除こうと、手でパタパタと払っていたわ。
千晶が反省したように小さな声でいった。
建次は、その言葉を気遣うように声をかける。
「その時々ではないでしょうか、風が強ければ手でバタバタ払っても構わないでしょうし、無風であれば、やはり濡れたタオルなどで拭き取る方が、花粉が飛び散らなくって良いのではないでしょうか」
「そうですよね、でも風除室を設け、ここで手を洗えるなんて最近の感染症対策や季節のインフルエンザ対策にも有効ね。ところで洗面器の横は物置台かなと思うんですけれど、この点々線は何ですか」
渉には細かなところは後でも良いでしょ、と言いながら千晶自身も図面に描いてある波線の意味を聞いてくる。
「それはコート掛けです。もちろんコート掛けの外壁側には換気扇を付けようと考えています」と建次。
目を丸くした千晶が「なるほど、ここでコートを脱いで手を洗い、家に入るのですか。でも髪の毛に付いた花粉も何とかしたいです」という。
「もちろん、そのために風除室からエアーシャワーを通り玄関へと入る間取りにしています」
「エアーシャワーってクリーンルームの前に設置されている、あれですか」
渉は驚いたように建次の顔と図面上を素早く交互に見ながら、口早にいった。
エアーシャワーはクリーンルームという埃(微粒子)が少ない部屋、例えば電子機器や半導体の工場、あるいは食品製造工場などの出入り口に設置され、入室者の人体、衣服等に付着した粉塵・ウイルスを除去するための設備だ。
「クリーンルームほど本格的ではありませんが、住宅用のエアーシャワーも販売されています」
「それは意外だったな、住宅用のエアーシャワーがあるなんて」との渉の呟きと共に千晶の心配そうな一言が聞こえてくる。
「お値段が張るのでは」
「何いってんの君の身体と家族の健康のためじゃないか。それで少しでも心地良く生活できるなら、お金の問題ではないと思うよ」
「でも」と千晶は伏し目がちにいう。
「建次さんも確かブログか何かで言ってましたよね。『住宅は家族の豊かな暮らしのために創るものだ』と、それは空間や間取りだけではなく暮らしに必要な設備にも言えるのではないかと考えていたんだ」と渉は力強く千晶を見つめていった。
健次は意外な渉の姿を見て驚いた。
最初は何となく頼りなさそうな笑顔で建次の前に座っていた、しかし重要なところでは自分の考えを愚直に家族へ伝え、正しい判断できる頼もしい一面を持っているようだ。
「それに、これもサイトで読んだと思うけれど『住宅の予算は総額で考えるべき』って書かれていましたよね。決して予算を考えずに、プランに書き込んだりしていないと思うよ」
建次は、渉に一本取られたかなと手を頭の後ろへまわす。
「えっ、本当ですか」千晶は不安と喜びが複雑に絡まったような表情で顔を向けてきたが、その眼は大きく開かれ、真っ直ぐに建次を見つめた。
「もちろん、ご主人の仰る通り、最初から予算配分を行っていますので、エアーシャワーも概算予算の中に組み込んでありますので、ご安心ください」
千晶は安心したように「ご説明を続けていただけますでしょうか」と建次を促す。
「そうですね、このエアーシャワーは意識的に玄関への動線上に設けてあります。理由はご家族皆さんはご承知だから良いのですが、お客様がいらした時にも、あまり不快感を与えることなくエアーシャワーを浴びていたあけるように配慮しています。それから身体に付いた花粉だけではなく、日常生活で持ち込む荷物の花粉も少なくしたいので」
と言いながら建次は千晶の横に置かれた「エブリン」だろうか、口の開いたバッグへちらりと目線を向けた。
建次の目線に気付いた千晶は照れ臭そうにバッグを押さえ
「バッグも口が閉まり、花粉が入り込まないものに変えなければいけないのかしら」
「そうですね花粉症も感染対策も自己防衛が基本だと思いますね、花粉にしてもウイルス等にしても正しく相手を知り、対策を施すことではないでしょうか」と建次が指摘する。
千晶は「そうですわね、本当は自宅の玄関にエアーシャワーを取り付けるなんて、ちょっと非現実的というか異質な感じを受けたのです。でも自分自身と家族のことを考え、心地よく暮らすため必要?いや適切な対策であれば是非とも設置したいです」と迷いが吹き飛んだように唇を強く結んだ。
続けて建次は、本来なら玄関収納は花粉対策として、室内に設けるところを屋外に設置してあること。風除室およびエアーシャワー室、玄関には花粉対策用の吸気口と換気扇を、それぞれの場所に取り付けることなどを説明した。
渉から普通、玄関と居間の間には扉を入れるのではにかと指摘を受けた。
建次は地域によっても異なるが、この地の住宅は確かに居間との間に建具を入れ外気温との差を緩和させるが、計画の住宅にはエアーシャワー室の建具がその役割を行うので、特に必要はないとの考えを説明する。
千晶からは下足棚が土間部分ではなく、床上に設置してあるのは何故かと聞かれる。外履きは脱いでから下足棚に収納することから、土間部分に下足棚があると、サンダルなど他の履き物が必要になることを伝える。ただし、雨天や降雪時の濡れた長靴やブーツの置き場所を考えて欲しいと希望される。
居間
建次が計画した居間は、南西方向の角に開口を広く設置した20帖弱のスペースだ。収納や風除室の面積を除き、居間だけの面積は18帖となる。
建築基準法で住宅の場合、居室単独での有効採光面積は室内面積の1/7以上の外部と接する窓面積が必要とされる。ただしこの住宅の場合は食堂や台所も一部屋として設計されているので、基準法の計算では居間、食堂、台所の床面積を合計し、その1/7以上の有効採光面積があれば良いとされる。
しかし窓は、ただ採光や換気目的で取り付けるものではないのだ。室内から見たい景色を取り込む額縁として、日差しが造り出す時計として、季節の移ろいを感じとるカレンダー、あるいは精神的な苦痛を感じた時の特効薬として機能する。
その上、開口部の位置やバランスが上質な室内空間を創り出す重要な要素となり、さらに窓は外観の表情を決定する。
建次は居間の説明に移る。
「居間は、およそ2間×4間半の18帖の広さになります」
「居間だけですよね」と渉の問いに、
「そうです。ただ、この部分がありますのでもう少し狭いですが」と建次は風除室との間仕切り部分を指し苦笑いをする。
「それくらいは構いません」渉もつられて目を細めている。
「実は、この居間のプランですが、とてもシンプルに見えて、なぁ〜んだ誰でも考えられそうな単純な間取りではないか、と感じると思います」
と建次が言うと、渉は顔を赤め「こほっ」と咳をする。
渉の様子を感じとり千晶が「シンプルなものは一見、単純そうに見えますが塾考し洗練されたものが多いと思いますわ」と言葉を添えた。
「いえいえ見た目が単純なのは、その通りです。私も長年、住宅設計を行っています、今から思うと若い頃は、シンプルな設計に自信がありませんでした、出来上がった設計図を見ると、なんだか何も考えていないように見え、より複雑に難しく考える傾向にありました」
現在で設計図はそのほとんどがパソコンを使用しCADで描かれる。しかし建次が設計を始めた頃、設計図はドラフターや平行定規、製図板にT定規を使いトレイシングペーパーに手描きが基本であった。
そして手描きの図面は何故か、1枚の絵画のように図面のクオリティーが求められる風潮が拭い去れなく、とにかく図面に線を描き込んだものだ。建物の形状も線が多く複雑で解りにくいものが多かった。
世界的建築家”ミース ファン デル ローエ”大先生の「Less is more」という言葉を知りながらである。
今、多くの人は人生において「Less is more」とは「少ない方がより豊かである」として使われているようだが、建築家である建次にとってこの言葉は「少なくすることがより優れた設計となる」あるいは「少なくすることは至難の技である」と解釈している。
建次は続け、
「複雑なものは時と場所を特定します。一方で簡潔なものは時も場所も特定せず飽くことはありません。間取りでいえば、お子さんが成長した後までも使い続けることができると考えています」
「それはどのような意味でしょうか」と千晶は不思議そうな顔をする。
「この住まいは伴侶、千晶さんの花粉症対策の家であると共に『子育ての家』でもあります。お子さんが自由に室内で遊べるには、このようにシンプルで何もない部屋が理想的ではないでしょうか」と建次がいった。
「確かに言われてみれば、その通りです」
「お子さんが成長し室内で走り回ったり、おもちゃを広げなくなれば居間にソファーを置いても良いですし、お友達とホームパーティの機会が多ければ食堂の空間を広げ大きなテーブルに変えるなど、その時々、時代によって自由に空間を使うことができるフレキシブルな空間が実現できると考えています」
「なるほど、現在だけではなく将来までも考えた間取りということですね」
渉と千晶は何か希望を見出したように目を輝かせて答えた。
さらに建次は、
「先ほど居間の広さは、おおよそ18帖と言いましたが、実際は食堂の方に折れ曲がって空間が繋がっていると、多分ご想像以上の空間の広がりを感じることができる一方で、玄関側の居間部分は家事動線上にあたるので少々活動的な空間となり、その奥、食堂側の南方向の空間は落ち着いた雰囲気を楽しめる空間となるはずです。さらにこれらは花粉が飛散する時期にでも室内で十分に、お庭と景色を楽しんでいただき、飽きることなく豊かに暮らしていたきたいと願い計画した居間です」と加えた。
– Break Time –
「花粉症と環境」
居間の説明を終わると渉と千晶は、子供たちから遠ざけて置いてあったグラスに手を伸ばし、すでに冷めてしまったハーブティーに口を付けた。
「冷めてしまいましたね、入れ直しましょう」
「あっ、大丈夫ですよ今日は暑いから冷めても美味しいです。特にこの少し酸味のあるハーブティーには柑橘系のドライフルーツが入っているようで気に入りました」
と千晶がいい、続けて、
「建次さんは食べ物にも何か気をつけているってことありますか」
「もちろんありますよ。添加物の入っていないものが基本ですかね、そうそう私、血圧が高いので医者に相談したんです。多くのお医者さんって血圧が高いと『塩分は控えめにしてください』などと食べてはいけないものを列挙しますよね。ですが血圧を下げる効果のある食べ物を教えてくれない」
「へー、それで」と千晶は催促する。
「そうなれば徹底的に調べるんです。食べたら降圧効果のある食べ物を」との建次の言葉に「なるほど食べてはいけないではなく、食べたら良いってことですね」と千晶はうなずく。
「実はこうして今、花粉症対策の家をご説明していますが、この家に引越しをされると花粉症が改善されるかもしれません」との言葉に千晶は驚き目を丸くする。
建次は「私は林業従事者を何人か知っていますし、県外の工務店仲間にも聞いたことがあるのですが、林業で山の仕事をしている方に花粉症の方は、とても少ない感じがするといっているんです」
「それって本当ですか」
「あくまでも推測ですが」と建次は前置きして話し始めた。
「私は花粉だけで花粉症を発症しないと考えています。都市部では大気汚染でしょうし住宅では建材に含まれる化学物質と花粉が重なり発症するのではないかと疑っているんです。実際、合成化学物質を使用しないで新築した方の中に花粉症が改善したと感謝されたこともあります。とても興味深いので、今後、何かの実態調査をできれば良いと考えていますが」
「もしかすると、私にも効果があるかもしれませんわね」千晶は期待するように正面の建次を真剣な眼差しで見つめた。だが、その姿は新築住宅に対する祈りに近いものだったのかもしれない。
ダイニング・キッチン
「さて、ダイニングとキッチンへ進みましょうか」建次は2人に声を掛け話はじめる。
「まず、ご希望でした台所の収納は階段下に計画しました。私もできれば台所から直接、収納庫に入れる方が良いのかなと考えましたが、台所の収納が減ること、出入り口の天井高さが十分に確保しにくいこと、階段室と台所の間仕切り壁を耐力壁にし2階の外壁を支える壁にしたいことにより、台所の収納は居間を通って使うことになりますが、よろしいですか」
千晶は首を傾げて考えている。
「台所のキッチンバックと言うのですか?ここの幅って、どのくらいあります」と指で図面の上を指しながら疑問の言葉を発する。
「2間、3600ミリですね、ちょっと解りにくければ畳の長手方向2枚分になります」
「それって結構な幅になりますよね」
「そうですね、一般の8帖間の壁の一面と同じですから」
「それならば階段下の収納は日常、使わないものや季節品、防災用の備蓄品といっても、うちではローリングストックになりますが、そのような品物を入れておくのに良いかもしれませんので、今のところはこのままで良いです」と千晶は伏し目がちの眼差しを図面に落として答えたかと思うと目を上げ、
「冷蔵庫は、なぜこの位置に計画されたのですか?反対側あるいはキッチンバックでも良いのでは?」といった。
料理上手と聞く千晶はキッチンの話となると、その指摘は鋭く淀みなく口から出てくる。
「調理動線の流れと、お子さんが台所の中を通らなくても、冷蔵庫の中から飲み物を取り出せる位置だと考えました。それと朝食を料理される時には、キッチンに立てば朝日が差し込むことも考えています」
確かに建次はキッチンに立ち、左側に冷蔵庫を置く選択肢もあると考えていた。最も気になるのは風呂上がりの場面だ、子供がお風呂上がりに洗面所側から飲み物を求め、台所の中を走ったりすると危険ではないだろうか?との心配がある。しかし、それは暮らしの中での頻度の問題だと気づく。風呂上がりのシーンは、1日に多分1度である、一方で冷蔵庫に飲み物を取りに来るのは複数回ある、特に子供たちは居間で遊んでいる時に多く飲み物を必要とするだろうと考えを改める。さらに台所は、時に居間からの視線をカットしたいシーンもあるだろう、その場合は台所と居間の間に引き戸を閉じれば良い。と、図面を見ると明らかにこの引き戸を書き忘れている。
「あっ!」と、建次が目を見開いた時と同時に、
「夜、台所仕事を終えた後のくつろぎの時間や、お友達が来た時、居間から台所の中が丸見えになるのは少し抵抗があります」
と千晶の声が聞こえてきた。
「すみません、書き忘れです。台所と居間の間のこの壁部分に引き戸を入れると良いと考えていました」建次は鉛筆で引き戸を書き足す。
「そうしていただけると、ありがたいです。それならこちらに壁があった方がいいのかしら」
「そうですね。色々と暮らしのシーンを考えても冷蔵庫はこの位置にあると良いと思います」と建次。
千晶は納得したように首を縦に振り、言葉を続ける。
「ところで、ダイニングには円卓を選ばれているのは何故かしら」
建次は最近、気になることがあるのだ。
それは同業者の一言であった。「建次さん、ダイニング・キッチンは、キッチン前のカウンターで食事をするのが今や世界のスタンダードですよ」というものだった。そんな根拠のない愚かな話があるもんか、と建次は軽く聞き流したのだが、後々この言葉を『流行』との名の下、他の施主に言いふらされたら困ったことになるな、と深く心配するようになった。
そもそも住宅に「流行」を持ち込んではならないのだ。長い年月、暮らしを営む住宅に『流行』とか『主流』などとの言葉を持ち込む設計者は胡散臭いものであるから、決して信用してはならない。
打ち合わせの最中にでも設計者あるいは営業担当者から「最近の流行は〇〇です」とか「最近〇〇が人気ですよ」と言われたら、そこで住宅を新築・増改築するのは思いとどまった方が良い。
食事は、ただ食物を摂取するだけではない。
中には、ご高齢のご夫婦で正面に見慣れた伴侶の顔があるより、横に座っていてくれた方が気が楽だと、やや冷めた間柄のご夫婦も、もしかしたらいらっしゃるのかも知れない。
しかし、子育て世代にとっての食事の場は、とても重要な一時となる。幼少期には食事の手助けを行い、食事の量や好みなどをさりげなく観察し、食事中の躾の場となる。少し成長すれば、日中の様子を聞く重要な情報交換の場として、子供たちの体調や精神的な様子なども観察しなければならない。
それには対面にて食事できる場を作っておくべき。
「食事の時には家族全員の顔を見て食事をすることが、家庭の基本だと考えていますので」
千晶の問いに建次は簡潔に答える。
「確かにその通りですよね〜」といいながら頬に笑窪を寄せ渉の方を見やる。
渉は、バツが悪そうに頭を掻き下を向いている。
「夫は付き合いだとか、なんとか言いながら夜の街並みが好きですの」
と刺のある言葉を発する。
「大丈夫!新築したら真っ直ぐに家に帰るよ。お約束します」
「本当ね」
「はい」と渉は下を向く。
見事に渉からの約束を取り付けると千晶から要望が出る。
「食事中にテレビを見ることはないので、テレビ台は不要ですが、たまにお花を飾ったり、お気に入りのグラス類を置いておく、飾り棚みたいなものがあると嬉しいですわ」
「それは、私も必要かなと考えていました。飾り棚をご希望されるのであれば、このリビング収納との間の壁面が良いと考えていました」
と建次が即答する。
リビング収納
建次は収納部分を指しながら、
「納戸をご希望されていましたが、独立した一部屋というより、空間の一部に壁を設け空間を、ゆるく仕切るというイメージです」
「納戸」といえば「仕切られた部屋」とのイメージを強く持つ千晶は、戸惑いとともに少し驚いた様子で大きな眼をさらに大きく開き、
「建具が入る独立した一部屋だと思っていました」
今でこそ「納戸」といえば「収納部屋」「物置部屋」とのイメージは強い。
しかし納戸は日本住宅史の中でも居室を除き最も古い部屋で、その始まりは平安時代といわれている。現代で納戸といえば主に収納部屋を意味するが、夫婦の寝室や産室を指す場合もあると伝わる。
歴史ある部屋であるがゆえ、地方により納戸には恵比寿、大黒、年神、農耕の神である亥の神を納戸神として祭る風習もあり、いずれも五穀豊穣、子孫繁栄の神であることから、納戸が生まれた平安時代の平均寿命は30歳その前、鎌倉時代の平均寿命は24歳といわれていた時代、人々が最も重要視していたことは、人間として生物として子孫を残すことであったに違いない。納戸はそのために、こしらえた特別な場であったことに間違いはないだろう。
植物が花粉症の原因物質である花粉を飛散させることもまた、植物が生物として遺伝子の継承目的である。自然の中では人類であっても植物でも、生物として遺伝子の継承目的として共通することは、皮肉なことなのかもしれないと。
建次は一瞬の間を払うかのように、
「納戸を独立させた一部屋にすると室内の掃除も疎かになりがちで、通路部分の面積も余計に必要となります。また建具を入れると”開閉する”という動作が2度、加わります。そこで不必要な動作、面積をなるべく無くするため生活空間から内部が見えない位置に壁を設け、さらにサンルームへの通路としても共用できる収納スペースとして両側に収納棚を設置した、オープンな納戸としています」と説明した。
リビング収納
建次は収納部分を指しながら、
「納戸をご希望されていましたが、独立した一部屋というより、空間の一部に壁を設け空間を、ゆるく仕切るというイメージです」
「納戸」といえば「仕切られた部屋」とのイメージを強く持つ千晶は、戸惑いとともに少し驚いた様子で大きな眼をさらに大きく開き、
「建具が入る独立した一部屋だと思っていました」
今でこそ「納戸」といえば「収納部屋」「物置部屋」とのイメージは強い。
しかし納戸は日本住宅史の中でも居室を除き最も古い部屋で、その始まりは平安時代といわれている。現代で納戸といえば主に収納部屋を意味するが、夫婦の寝室や産室を指す場合もあると伝わる。
歴史ある部屋であるがゆえ、地方により納戸には恵比寿、大黒、年神、農耕の神である亥の神を納戸神として祭る風習もあり、いずれも五穀豊穣、子孫繁栄の神であることから、納戸が生まれた平安時代の平均寿命は30歳その前、鎌倉時代の平均寿命は24歳といわれていた時代、人々が最も重要視していたことは、人間として生物として子孫を残すことであったに違いない。納戸はそのために、こしらえた特別な場であったことに間違いはないだろう。
植物が花粉症の原因物質である花粉を飛散させることもまた、植物が生物として遺伝子の継承目的である。自然の中では人類であっても植物でも、生物として遺伝子の継承目的として共通することは、皮肉なことなのかもしれないと。
建次は一瞬の間を払うかのように、
「納戸を独立させた一部屋にすると室内の掃除も疎かになりがちで、通路部分の面積も余計に必要となります。また建具を入れると”開閉する”という動作が2度、加わります。そこで不必要な動作、面積をなるべく無くするため生活空間から内部が見えない位置に壁を設け、さらに、サンルームへの通路としても共用できる収納スペースとして両側に収納棚を設置した、オープンな納戸としています」と説明した。
「確かに。仰ることはわかりますが、なんとなく建具がないことに抵抗があります」
と千晶が不安げにいう。
明治時代に開き戸が室内の建具として使用されることが多くなり、現代の新築住宅では室内建具の多くは開き戸が占めるようになった。特に戦後、日本の住宅業界は住まい手の意向よりも新建材を使った室内建具の工業生産品によるコストダウン化とクレーム回避が目的であった。
いわば住宅業界の都合により住宅に開き戸が多用され、住宅に使われる室内建具は開き戸が主流となったと推測している建次がいった。
「花粉症、アレルギー対応住宅の基本は、住宅内の如何なる場所にも埃を溜めず、掃除がしやすく、掃除ができない場所を作らず、全ての室内環境は同じくすることです。それには室内建具は開けて使うことです、そのために建具は引き戸を基本とすべきだと思っています」
千晶が育った家には開き戸しかなく、子供の頃から建具は閉めるように、と親から躾けられてきた。
「子供の頃から戸は閉めるようにと、親からよくいわれたものです」
千晶に納得した様子はない。
建次は千晶の不安を取り払うように説明する。
「そもそも住宅の各部屋に建具を入れる理由は、一つに寝室やトイレ、脱衣室など家族の中でもプライバシーを確保するため、もう一つには断熱性能が低い住宅では使う部屋だけ、使う時間だけ冷暖房をすることが常識とされ、それが不要なエネルギーを使わず、無駄なお金を使わないと考えられているからではないですか。そのためにも計画する新築住宅は、現在の冷暖房費と同等の金額で収まるような断熱気密性能を備え、家中の建具を開けても不快感を感じることなく暮らせる住宅を計画しますよ」
「わかりました。私も建具がない方が暮らしやすいと想像できます、しかし念のためリビング収納には引き戸を計画しておいてください」
と千晶は慎重だ。
「もちろん構いません。建具については間取りを決定した後、断熱性能を計算した上で再検討いたしましょう。暮らし始めてから不要になるものを製作しても、もったいないですからね」
建次は建具に関して保留として図面に、メモを書き残した。
スタディーコーナー
「最初に間取り図を見せていた時から気になっていたのですけれど、このスタディーコーナーって、とてもいい場所ですよね」先ほどまでの眉を顰めた表情は姿を消し、明るい声が聞こえてくる。
建次はその声に引きずられるように、明るく答える。
「それはありがとうございます。そうなんですよね、キッチンからも近いですし北東向きの窓からは安定した採光が期待できます。この場所であればパソコン画面も見やすいでしょう」
「そうね、子供たちが勉強する姿を後ろから見ていられます。お勉強を始めるのは3、4年後になりますけど・・・。その前に私のワークスペースとしても十分に使えそうで嬉しいわ」千晶の感想に、これまで黙っていた渉は、
「おいおい、俺にも使わせてくれよな」といった。
「あなたは、ここでなくても良いんじゃない。まっパソコンを見るくらいなら許してあげるわ」と、茶目っけたっぷりの笑顔で渉の方を向いた後、建次へと向き直し。
「ただ、書棚が欲しいです」という。
カウンター前のこの窓は、45センチ程の高さを考えており、その上に書棚を付ける予定でいます。そうですね床からですと105〜115センチというところでしょうか」
建次の説明に千晶は、
「ちょっと十分とはいえないかしら、その時にはリビング収納の一部を書棚として利用することになるのかしら」と考えこむ。
建次は自信を持った口調で答える。
「最下段の棚板を115センチとして、A4サイズの本が入るように棚板の間隔を35センチで3段は取れます。間口は270センチありますから、ご希望されていた本棚1本分の約1.5倍となりますので十分ではないでしょうか。それとお子さんが、ここを使うときには机下に個々の本棚を製作いたしますよ」
建次はプランニング前に提出していただくヒアリングシートには、書籍などの細かなものは、本棚が何本必要なのかと本棚の本数で書いてもらっている。それは生活雑貨なども同じで、生活雑貨の場合は引き出し何本分、あるいは収納ボックス何個分が必要なのかと聞き、設計時にその収納力を確保するようにしている。
特にアレルギー対応住宅を希望される住まい手には、掃除ができない場所を作らないためにも、無垢材を使った造り付け家具を推奨しているので、住宅の収納力には気を使うのだ。
「私は仕事で使った書類も不要となったら直ぐ資源回収に出してしまうから、それだけのスペースがあれば大丈夫かな。たまに必要な書類を間違って捨ててしまう失敗もしますけど」
と屈託なく笑った。
洗面・洗濯
「台所横に設けた洗面・洗濯を通り階段室を囲むように、ぐるっと回遊式の家事動線を設けました」
建次は、ぐるっと階段を囲むように間取り図の上に鉛筆で円を描いた。
意外にも渉が先に口を開く。
「この部屋広いですね。何帖ほどありますか」
「面積的には、おおよそ6帖相当です。ただ6帖といっても正方形の6帖相当になりますね」
建次は洗面所の収納力や洗濯機、洗面器などを配置する場所と部屋中央でのアイロンがけや、洗濯物をたたむなどの作業スペースも必要だろうとすれば、正方形の部屋が最も効率が良いのではないかと考え、部屋の広さとしては6帖だが1.75間×1.75間の正方形の部屋を計画したのだった。
さらに建次は「このスペースであれば、部屋中央に作業台を置いても十分な作業スペースを確保できますし、花粉症の季節には、ここに洗濯物を干してあっても歩き回る邪魔にはならないと思います」と付け加えた。
「家族の下着類とタオル、洗濯用品の収納は十分かしら」と心配する千晶に建次は、
「窓側のカウンター下で幅60Cm、深さ25Cmほどの引き出しでしたら12本分ありますので下着や部屋着でしたら、お一人3本分になります。洗面台部分には洗濯用品のストックを置き、日頃使用される洗剤や物干しの道具類は洗濯機の上にも棚をつけますので、そこに収納してください。またタオル類は脱衣室ないの収納と洗面横にも収納棚を付けますので十分かと思います」
「私もう一度、収納物を整理してリストアップし直したいのですが構いませんか」
と千晶が聴くと渉は、
「ファーストプランのこの段階で洗面・洗濯のスペースとして、これだけの面積を確保してくれたんだから収納は結構、自由になるのではないですか、これからもっと煮詰めた計画にできますよね」と口を挟む。
建次は、「もちろん、今は間取りの段階です。それもファーストプランですから、これからももっと練り直しが必要になります」といった。
図面を見ていた千晶が「この床にマス目が書いてあるのは?」と、ポツリといった。
「そう、これはご相談なのですが、この部屋は水が跳ねても良いように、床はタイル仕上げが使い勝手が良いかと思い、書き込んであります。ただし床をタイルにすると、どうしても冬場は冷たく感じます」と建次。
「洗面所にタイルですか、お掃除がしやすそうで、とてもお洒落な感じになることは分かりますけれど」
千晶はタイル仕上げには否定的な感想を口にする。
「そうですね、床暖房を入れられるようでしたら、タイルでもよろしいのですが。暖房方法もこれから決めなければなりません。その際にもう一度、床仕上げに関して検討いたしましょうか。ただ、床材は無垢材のフローリングを基本に考えていますので、設計に取り掛かる前には仕上材を決めておきたい、と考えています」
無垢一枚板のフローリングは乾燥状態により新築後、反り返ったり目地に隙間が生じたりと仕上がりに大きな差が発生する。
目地に隙間が空けば、そこに花粉が入り、いや花粉ばかりでなく埃やダニなんかも隙間に入ると掃除がしにくく、アレルギーの症状が悪化する可能性もある。
それを防ぐためにも施工前の材料管理には気をつけなければならない。適正な乾燥方法や含水率はもちろん、反り止めと呼ばれるフローリング 裏側の溝幅の種類や深さ、表面の仕上げ方法も仕上げ面にワックス掛けるなら、施工する前に裏側にもワックスを掛け、表裏とも同じ条件にする必要がある。
また施工する時期も湿気が多い梅雨の季節は避け、空気が乾燥している時期を選ぶ、などなど床板一枚にも気を付けなかればならないのだ。
洗面・洗濯室は収納の再検討と床仕上げ材、暖房計画を課題とした。
階段室・2階トイレ
2階は階段室を中央に南北へ寝室と子供室を配置する単純な間取りだ。単純といえば単純な間取りではあるが、この一見、単純そうに見える2階の間取りを適切に1階間取りの上に配置するには苦労する場合が多い。
2階建住宅の場合、最も経済的で耐震性能を高くするには、1階と2階の外壁面を揃え、同じ大きさ同じ形にする総2階建てだが、多くの住宅では1階の居室面積が大きく、2階は小さくなる傾向にある。総2階建ての住宅とするには各階の面積配分を行い面積を揃える、あるいは吹き抜けを考えるなどの僅かな工夫をすると実現でき場合もある。
しかし1階の面積が広くなる場合、1階の何処にでも2階を配置しても良いわけではない。
特に気をつけたいのが耐震性能だ、2階の外壁直下には少なくとも必ず壁があること、そして建物全体では壁の直下率は60%以上、柱の直下率は最低でも50%以上になるように配置しなければならない。
さらに部屋の使用用途にも気をつけたい。特にトイレの位置は上下階を揃えた位置に配置することが基本。少なくとも2階トイレは浴室や洗面所、脱衣室の上に配置したい、決して寝室や食堂、居間、キッチン上にトイレを配置してはならない。それは気分的に不愉快であり、現実的な排水の発生音は不快感を伴う。また現代、排水管が外れ漏水することは稀だが、衛生陶器の詰まりによる階下への漏水は、トイレ排水だけに酸鼻を極める事態となる。
建次は2階の説明に入る。
「階段は”直線階段”や”かね折り階段”に加え”折り返し階段”などが一般的ですが、お子様がまだ小さいので中でも最も安全性の高い”折り返し階段”としました。階段を上がると正面に手洗いとトイレを設置してあります。また上り口は1階のトイレ前からです、これも階段の空間を使って1階のトイレ前にも外光が入るようにと考えています」
「そうそう安全性といえば、先日ベランダからの転落事故が報道されていましたよね、住宅内での事故も怖いので階段の安全性も求めたいと、お願いしようと思っていたところです」
と、千晶が不安そうに子供たちを見た。
「そうですね。デザイン性からいえば吹き抜けに直線階段なんて、オシャレかもしれませんが、私は安全性を最優先に住宅の設計をしたいと考えているので、基本的には折り返し階段になるように設計していますね」
渉は階段の話を聞きながら思わず二度見して呟く。
「へー、1階のトイレ上に2階のトイレがあるんだ」
渉は自宅の新築を考え始めてから新聞のチラシや、毎週のようにポストに入るタウン誌などに掲載される住宅会社の間取り図を見るようになった。間取りを掲載している広告は少ないが、それでも何件かの広告に間取り図が描かれている、その間取りを注意深く見ているとトイレの位置が上下同じ場所にある間取りは少ないというより、ほぼ皆無であることに気付いていた。
建次は眉を顰め、
「複層階の住宅で上下階のトイレ位置を揃えることは基本ですよ。もしダイニングキッチンや玄関、リビングの上にトイレを配置していたり、トイレに窓が付けられない設計をしているなら、それは単に設計者の力不足か、住まい手の暮らしに関心がないかのどちらかでしょう。そのような設計をする方が最近多いんですよね、同業者として恥ずかしい限りで困ったものです」と現状を嘆いた。
子供室
子供部屋に対する親の考え方は一種、親の教育方針であると建次は考えてるので、あまり決定的な提案は控えながら話を始めた。
「お子さんが個室を必要とするのは数年後でしょう。そこで新築時には、それぞれの個室になさる必要はないと思い一部屋として計画しています。将来、個室が必要となる時期になりましたら、その一つの方法として、この点線のように間仕切りを設置してはいかがかと思います」
子供部屋は家の中で最も予測不能で変化の激しい部屋だ。しかし一定の年齢で子供達は自分だけの部屋を欲しがり、本当に勉強部屋として子供部屋を必要となるのは、高校あるいは大学受験を控えた時期だけといっても良いだろう。
部屋の間仕切り方法は兄弟姉妹の関係性でも異なるので、本当に個室が必要となった年齢で、親子が話し合い最も家族にふさわしい仕切り方を考えれば良い。
このように予測不可能な部屋であるからこそ子供部屋のつくりは、こうした時間的な変化や個々の個性、兄弟姉妹の相和度にも答えられるように開放的に作っておくことが、いますぐに個室を必要としない子供たちへの最良の家づくりだと思う。
千晶は上向き加減で遠くを見るようにいった。
「そうね、実家にも私の部屋があったけれど、たしか6帖程だったかな?今では実家でそのまま”押入れ化”しちゃってるけど」
そう言われると子供がいれば単に子供部屋を造るのが当たり前で、与える時期や年齢あるいは部屋の使い方なんて考えていなかったな。ただ6帖程の明るい南向きの部屋を設けておけばいいと思っていた。渉は千晶と同調するかのように宙を眺めていたが、おもむろに口を開いた。
「確かに自分自身のことを考えると子供部屋については、もっと真剣に深く考えなければならない問題かもしれないな」
建次は我が子にとって子供部屋をいかに重じて考えなければならないのか、と気づき始めた若き二人の様子に目を細めながら言葉を発した。
「そうですね、孟子曰く”居は気を移し、養は体を移す。大いなるかな居や”ですね。子供にとっての”居”が子供部屋とするなら、子供部屋を真剣に考えることも愛情の一つですね。どうか、お子さんのためにも子供部屋について、お二人で再度じっくりと、お話しされてはいかがですか」
渉と千晶は二人揃って首肯し「大切な子供たちのためにも、お願いします。でも、ご迷惑お掛けしませんか」と不安げに尋ねる。
片手に持っていた鉛筆を机の上で両手に持ち替えた建次は、
「迷惑も何も今は家づくりの初期段階ですよ、実は、もっと色々なご希望を聞きたいくらいなんです。そして、そのお気持ちを”カタチ”にするのが建築家としての私の仕事ですから」と真剣な眼差しの中にも温かな眼を二人に向けた。
寝室
思い出話をするように建次は、どこを見るでもなく話し始めた。
「私が若い時には『子供部屋は南向きで明るい部屋にして下さい。寝室は北側でも構いません』という、ご希望が多かったように思います。ですが、いつの頃か『子供部屋は南側に』というご希望を聞かなくなりました」
「何故でしょうかね」千晶は思いがけない話に興味深そうに聞くと、建次は「すみません。私にも理由は分からないんです。ですが寝室は何十年も使う部屋であることに間違いはありません。一方、子供部屋は使用年数が限られます、逆にずっと子供部屋を必要とするのも考えものでは、ないでしょうか」と答えた。
「そうだな、俺も大学進学で上京した方だしな」と渉が頷く。
”夫婦は赤の他人”ともいわれるが”親子にも見せられない姿態を曝け出すのも夫婦の姿”であり社会の最小単位は夫婦であると考える建次は、
「著名な建築家、清家清は『住まいの原点は夫婦が交会する場所である』とも、いっています。ご夫婦が健康が家族の幸せにつながる、と思います。そのためにも住まいの中で最も環境の良い南東の位置に寝室を設けてあります。また日差しの、ある部屋はダニ やカビの発生も抑えることができますし、お子さんも、まだご両親と一緒に寝まれるでしょうから、しばらくはご夫婦の寝室が家族全員の寝室となるでしょう」といった。
千晶は、なんども肯き「その通りです。ただ暫くは、ベッドではなく畳に布団を敷いて寝もうと思っていますので和室にしていただけますか」と意外というか建次にとっては嬉しい注文をしてきた。
思わず建次が「和室ですか」と聞く。
千晶は「そうなんです。今は畳の部屋がないのでフローリングの上にラグマットを敷いて、その上に布団を敷いているんですけれど、掃除はしにくいし、いくら抗菌加工してあってもなんだか埃が付いているようで、ダニ なんかも気になります。その点、畳の方が、ずっと掃除も簡単そうですし、クション性も良いと思います」と答える。
建次は普段より畳は、そのクッション性や場所を選ばず座り、横になれる畳が子育てに最もふさわしい床材だと考えている。しかし将来を考えると不安なこともあるのだ。
「今は確かに畳の方が良いでしょうが将来を考えると、ベッドにされることはありませんか」
案の定、渉が答える。
「今はしょうがないけれど、僕は将来ベッドがいいかな」
千晶も「そうよね、でもどちらかを選ぶとなると今は子供たちのためにも畳に、お布団ではないかしら。ベッドにする時には畳の上に置くしかないのでは」
「でも畳にベッドって、なにか抵抗ないか」
二人の会話を聞き、
「将来ベッドにされたいのでしたら、ベッドにされる時、床を畳からフローリングへと簡単に交換できるように施工しておきますよ」と建次が提案する。
二人は同時に、「そんなことできるのですか」と驚いた様子で顔を上げ建次の眼を覗き込む。
「ええ、フローリングから畳への変更は少々難儀なんですけれど、畳からフローリング への変更は、ちょっとした仕掛けをしておけば簡単なんです」
と言いながらスケッチを始めた。
それは”畳寄せ”と呼ばれる部材を本来、畳の表面と同じ高さにするところを将来フローリングに変更する時にも壁仕上げへ損傷を与えないよう、畳表面より45ミリほど高くし床板を差し込むための”実(さね)”という小さな溝を掘っておく、という簡単なものであった。
この説明を聞き、二人は迷うことなく新築時には和室の寝室を選んだ。